清貧とは?意味・語源と『自分の価値観でお金を選ぶ』生き方

「お金を欲しがるのは、どこか品がない気がする」「お金の話をするのははしたない」「贅沢はよくないこと」。こんな感覚に、心当たりはないでしょうか?
私は独立して10年以上、『お金モテ®』というお金との上手なつきあい方をお伝えしてきました。この記事では、清貧という言葉の意味を確認したうえで、清貧が”我慢”に変わってしまう分かれ目と、自分の価値観でお金を使いこなし、差し出されたものを上手に受け取ることができるようになるまでの道筋についてお話ししていきます。
清貧とは?読み方・語源・反対語|先に結論を
清貧とは、私欲を手放し、行いが清らかであるために質素に暮らしている状態を指す言葉です。読み方は「せいひん」です。私の理解では、清貧の中心にあるのは、お金の少なさそのものではありません。何にお金を使い、何には使わないのかを、自分で決めている姿勢だと感じています。
語源をみると、「清」は清らかであること、私欲がないことを表しています。「貧」は文字どおり貧しいことです。この2つが重なって、清らかさの結果として質素である、という意味になります。ただ、漢字の読み解きだけでは、その意味を理解するには不十分かもしれません。というのも、清貧という言葉はもともと中国の古典に出てくる言葉で、1000年以上も昔から人の生き方を語るために使われてきた言葉だからです。
では、反対語はどうなるのでしょうか?古くから清貧の対義語とされてきたのは、「豊かさ」や「お金持ち」ではなく「濁富(だくふ)」です。鎌倉時代の『沙石集(しゃせきしゅう/ させきしゅう)』には「清貧は常に楽しみ、濁富は恒に愁ふ」という一節があります。つまり、清らかに貧しくあることの反対は、濁った(不正な)やり方で富むこと、ということになります。清貧は「お金持ちは汚い」という意味ではありません。問われているのは、お金の量ではなく、そのお金をどう手にしたのかのほうなのです。
清貧の出典と使い方|古典の用例と例文3つ
この言葉が人の生き方を語るために使われてきたことは、辞書が挙げる用例からも確かめることができます。古い用例のひとつが、中国の詩人である陶潜(とうせん。陶淵明とも呼ばれます。365〜427年)の「詠貧士(えいひんし)」です。貧しくとも志を曲げなかった昔の士(し。学者や知識人のことです)を7首にわたってうたった連作で、貧しさを嘆く詩ではなく、貧しさのなかで保たれた清らかさを讃える詩になっています。
日本でも、平安時代の歴史書である『日本文徳天皇実録』(879年成立)や、前述の鎌倉時代の仏教説話集である『沙石集(しゃせきしゅう)』(無住・1283年)に清貧の語が使われています。『沙石集』が清貧を濁富と並べているのは、この言葉が財産の多寡ではなく、あり方や生き方、人としての姿勢に注目しているからだと言えるでしょう。
使い方も確かめておきましょう。清貧は、次のような形でよく使われます。
- 「清貧に甘んずる」…貧しさを受け入れて不満を言わない、という使い方です。ただし、この言い方には後ほどお伝えする落とし穴も含まれています。
- 「清貧の思想」…物を多く持たないことのなかに価値をおく考え方を指します。後ほど触れる書名としても広く知られています。
- 「清貧な暮らしを貫いた学者」…人物を褒める言葉としての使い方です。
どの例文にも共通しているのは、貧しさそのものを褒めてはいないという点です。褒められているのは、貧しさのなかでも私欲に流されなかった姿勢のほうになります。
清貧な人とはどういう人?特徴と、質素・倹約・ミニマリズムとの違い
清貧な人とは、暮らしが質素な人というよりも、自分の価値観に合わないものにはお金を使わないと決めている人のことだと言えます。特徴を挙げると、次のようになります。
- 買う前に、値段より先に「自分にとって必要なのか」をしっかりと確かめている
- 持ち物は少なくても、気に入った良いものを長く使っている
- 人からの評価や流行を、買う理由にしていない
- お金のお話を避けず、支払う額も受け取る額もハッキリさせている
- お金が少ない状態を、恥ずかしいとは感じていない
似た言葉と比べると、見ているところが違うことに気づきます。
| 語 | 意味 | 清貧との違い |
|---|---|---|
| 質素 | 飾らず、お金をかけない暮らしぶり | 暮らしの様子を表す語で、志の清らかさまでは含みません |
| 簡素 | 余分なものを省いた作りや形 | 物や仕組みの形についての語で、人の生き方は指しません |
| 貧乏・貧困 | 生活が成り立たないほどお金が足りない状態 | 自ら選んだ状態ではないため、解決すべき重要な問題です |
| 赤貧 | 何ひとつないほど貧しい状態 | 清貧は自分で選んでいる点が違います |
| 倹約 | お金を減らさないための工夫 | 「お金を残すこと」に重点が置かれています |
| ミニマリズム | 持ち物を減らして暮らす考え方 | 清貧と通じるものがありますが、清貧は減らす理由を問う点が異なります |
このなかで清貧と最も近いのは、ミニマリズム(断捨離)です。少なく持つことで心を自由にするという発想は、清貧とかなり似たニュアンスを感じます。ただし、清貧が問うているのは数の大小ではなく、何を残して何を手放すのかという中身のほうだと言えるでしょう。
では、その中身はどこから来ているのでしょうか?
清貧の思想はどこから来たのか?仏教・禅・武士の暮らしぶり
清貧という生き方は、日本では仏教の考え方とともに広がってきました。仏教には「無財の七施(むざいのしちせ)」という教えがあります。お金や物がなくてもできる7つの施しのことで、やわらかい表情で人に接する和顔施(わがんせ)などが含まれます。与えるために財が必要だとは限らない、という発想です。
禅の修行や、武士の質素な暮らしぶりを尊ぶ考え方にも、同じ流れが続いています。江戸時代後期の禅僧である良寛(1758〜1831年)が、庵でわずかな持ち物とともに暮らしながら、子どもたちと遊ぶ姿で親しまれてきたのも、この系譜になります。現代では、中野孝次さんの『清貧の思想』(草思社・1992年)が、西行や芭蕉、良寛といった人たちを辿りながら、物を多く持たないことのなかにある豊かさを描いて広く読まれました。
この系譜を並べてみると、ひとつのことがハッキリとみえてきます。それは、どの人も貧しくなることそのものを目標にしていたわけではない、という点です。自分の価値観を優先させるという選択がまず先にあって、持ち物やお金が少ないのはその結果として付いてきただけだということなのです。ここを誤解してしまうと、一見すると同じにみえる暮らしが、まったく違うものへと変わってしまうでしょう。
その清貧は”我慢”になっていないか?お金を遠ざける落とし穴
ここでいう「まったく違うもの」とは、この順番が逆になった暮らしのことです。お金を減らさないこと自体が目的になって、欲しいと感じた物をあきらめる、誘いを断る、自分のためにお金を使うと後ろめたくなる、などの状態は、外側からは同じ質素な暮らしにみえても、内側では我慢が続いている状態で、清貧とは本質的に異なるものです。
苦しい我慢状態に陥ってしまう理由は、判断の基準がご自身の大事にされている価値観よりも金額が優先される状態へと順番が入れ替わってしまっているからです。お金を支払うかどうかを「いくら減るのか」だけで決めるようになると、お金を使うたびに損をしたように感じてしまいやすくなります。
ここで、お金を2つに分けてみると、何が起きているのかがよくみえてきます。数字で管理することのできる『冷たいお金』は「信用」から生まれ、暮らしの土台になります。一方の目にみえない『温かいお金』は「信頼」から生まれる『信頼残高』のことで、人との関係のなかで育っていきます。
我慢になっている清貧は、冷たいお金だけを守ろうとしている状態だと言えます。すると、金額のつかない感謝や応援、誰かの好意までもが、徐々に受け取りにくくなっていきます。支払いを減らすことには成功しても、人を通じてやってくる温かいお金の流れまでも無意識に止めてしまう。これが、知らず知らずのうちに、お金を遠ざけてしまう落とし穴なのです。
誤解のないように補足すると、質素に暮らすことそのものが悪いわけではありません。分かれ目は、そこに自分の価値観があるのかどうかです。では、我慢ではない清貧とは、具体的に何をすることなのでしょうか?

清貧に生きるとは、『自分の価値観でお金を選ぶ』こと
清貧に生きるとは、お金そのものを嫌ったり、遠ざけることではありません。自分の価値観でお金を使い、差し出されたものはちゃんと受け取る。この2つが揃った状態のことです。まずは、支払う側からお話ししていきます。
その人らしく自由に生きている方には、ひとつの共通点があると私は感じています。それは、ベストな選択を探し続けるよりも、悪くはないなと思える選択肢のなかから、自分の価値観に近いほうを選んでいる、ということです。理由は、ベストを探そうとすればするほど、選ぶ基準が他人のものさしに影響を受けやすくなり、決めるまでに時間がかかったり、迷ったりしやすくなるからです。
「自分の価値観に近いほう」を見分けるコツは、自分の体温(エネルギー)を感じ取ること。ですので、支払う前に一度だけ、「この支払いで自分の体温(エネルギー)は上がるのか」を確かめてみることをオススメします。これだけで、同じ質素な暮らしでも、感じ方が変わってきますので。
そのうえで効くのが引き算です。価値観に合わない支出は、やめてしまって構いません。使っていないサブスクを解約する、惰性で続いている固定費を見直す、気が重くなるお誘いは、会う頻度を調整しながら減らしていく、などなど。そうして浮いたぶんを、ご自身の体温の上がるコトやモノに使ってみてください。金額は小さくて大丈夫です。小さくても、エネルギーの上がるコトやモノに何度も使うことに意味があり、結果、お金を使うことへの罪悪感も少しずつ薄れていきやすくなりますので。

差し出されたものを『受け取る』ことができているのか?
大事にされている価値観に沿ってお金を使えるようになってきたら、次は受け取るほうも練習していきましょう。例えば、ご馳走していただいたときには「申し訳ありません」ではなく、「ありがとうございます、嬉しいです」とお伝えしてみる。応援していただいたときには、成果でお返ししようと身構える前に、まずは「応援して貰って嬉しい!」と喜んでいる姿をそのまま見せる。お返しするのは、別の機会でOKです。自分にできる精一杯のことでお返しすればいいのですから。差し出されたお金やご好意を受け取る行為を、相手から何かを奪っていると解釈してしまうと清貧の本質を見誤ります。その方から受け取ったものを、自分の価値観に沿ってさらに世の中に流しながら循環させる役割を、その方から引き継いだのだ、という風に捉えてみましょう。そうすることで受け取る際の抵抗感が少なくなりますので。
清貧は、甘んじるものではなく自ら選ぶもの
お金は、今の自分の『あり方』がスクリーンに映し出された影のような存在です。その影である金額だけを小さくしようとしても、実体である自分自身のあり方は変わりません。一方、自分の価値観で支払い、差し出されたものを素直に受け取り、循環させるあり方を意識していけば、映し出されるお金の現実も変わっていきます。
ここで改めてお伝えしたいのは、清貧とは貧しさを目的とした生き方ではないということです。貧しさはあくまで、自分の大事にしている価値観を貫いたあとに付いてくる結果に過ぎません。お金が出ていくときにも入ってくるときにも、大事な価値観を優先させることができるかどうか?ここに、清貧に甘んじるのではなく、清貧を自ら選ぶコツがあると言えるでしょう。
あなたの質素さは、我慢の清貧?それとも、自分の価値観で選ぶ清貧?


