なぜ教養を身につけるべきなのか?iPhoneと弓道の深い関係〜ビジネスと物理の間に弓を放った日

ある日のこと。起業されている女性からこんなご相談を頂いたことがありました。

「とある経営塾に参加して物理について教わったのですが、どうしてビジネスに物理が必要なんですか?と主催者の方に尋ねたら『頭で考えないで感じて』って言われてしまいました・・・」

「でも、なぜ経営に物理が必要なんですかという質問には答えがあるはずですよね?なのにどうして答えてくれなかったのでしょうか・・・?」

とかなり困惑したご様子。

私はその時の状況や様子をご相談者の方に詳しく尋ねました。すると主催者の方が質問に直接答えなかった理由がすぐに分かったのです。

とはいえ、そのことを上手く伝えるには慎重に言葉を選ぶなどの一工夫が必要なことにも気づきました。

「どんな言葉でお伝えしたら上手く伝わるかなぁ?」

「どうしたら主催者の方の意図が誤解なくこの方に届くだろう?」

そう考えているうちに、ふと一冊の本のイメージが浮かんできました。

「あっ、これだ!あの本をご紹介してご自身で答えを見つけて貰うのが一番いいかも!?」

そう感じた私は一冊の本をご紹介することにしたのでした。

その本の名は『弓と禅』。

大正13年(1924年)に来日し、昭和4年(1929年)まで東北帝国大学(現・東北大学)で教鞭を執っていたドイツ人哲学者オイゲン・ヘリゲル氏が、日本滞在中に習っていた弓道の師匠とのやりとりを書き記したもの。

東洋思想としての禅の究極の境地に、西洋人が弓道を通じて到達するプロセスが詳細に記された貴重な書物として世界的に有名になり、戦前の内容なのにも関わらず21世紀の現代でも売れ続けるロングセラー。

でも、どうして私はビジネスにも物理にも無関係なタイトルのこの本を紹介しようと思いついたのでしょうか?

それには深い理由がありました。

というのもこの本はマニアックな弓道の解説書などでは決してなくて、現在のビジネスシーンにも大きな影響を与えている知る人ぞ知る偉大な本のひとつだからです。

実際、アップルの創業者として有名なスティーブ・ジョブス氏がこの『弓と禅』を生涯の愛読書として公言していたことは有名で、iPhoneやMacbookに見られる徹底的にムダをそぎ落としたシンプルで美しいデザインの随所にこの本の影響を見ることができるのです。

つまりこの本は単なる弓道の回顧録という範疇をはるかに超えた、現代のビジネスシーンにも応用できる叡智を含んだ教養書なんですね。

以前から私は、ビジネスをしている人やビジネスを始めようとしている人なら少なくとも一度は触れておくべき必読書だと感じていました。

だから私はこの本を、ご質問の”答え”として女性の方にお伝えすることにしたのです。

正しい質問をしなければ欲しい答えは返って来ない

『弓と禅』のなかに出てくる教えのひとつに「意図を捨てなさい」というものがあります。

簡単に言えば、テクニックやスキルのようなやり方を磨いて、上手く矢を的に当てようと意図してはダメで、今この瞬間に集中して無心になることだけにフォーカスすれば、矢は自ずと的にあたるものなんですよ、という教えです。

ご質問者の女性は「ビジネスには物理を学ぶことが必要」と言われたことに疑問を感じ「なぜ必要なんですか?」と主催者の方に質問しました。

ところが『頭で考えないで感じて』と返されたことで、本当は答えがあるのにも関わらず教えて貰えなかったと誤解したのです。

でも『弓と禅』を読めば

・質問には必ずしも明確な答えが存在するとは限らないこと

・間違った質問には(そのことに気づかせるために)むしろ答えてはいけない場合があること

・正しい質問をしなければ必要な答えは得られないこと

が理解できるのです。

今回の件で言えば、『弓と禅』を読むことで、あたかも弓の名人に

「的に矢を上手く当てられるようになるテクニック(やり方)を教えてください」

という質問をしてしまったのと同じことだと気づけるのです。

自分のあり方を磨くことを目指す弓道においては、やり方を問う質問自体がそもそもナンセンス。

そうした間違った質問に明確な答えが返ってくるはずがありません。

鏡の法則や引き寄せの法則などが引き合いに出される自己啓発の世界には、目の前の現実は全て自分が創造した完璧なものなんですよ、という考え方があります。

その視点に立てば、目の前の現実というのは自分の思い通りに力ずくで変える対象なのではなくて、むしろ自分自身の変えるべきところに気づかせてくれるメッセージなんだ、ということが分かるのです。

経営塾の主催者の方が質問者の質問に敢えて答えなかった理由はまさにここにありました。

質問に直接答えないことが質問をした女性にとって必要な”答え”だったからです。

これが私が『弓と禅』を紹介するという間接的な方法を採用した理由なんですね。

数日後、ご相談者の女性の方からメッセージがあり、そこにはこう記されていました。

「あの本は私に必要な本でした。自分がいかに的を射ようとしてそこに囚われていたかを思い知りました。本当にありがとうございました。」

この言葉を受け取った私は、伝えたかったことが上手く伝わったことにホッと胸をなで下ろしたのでした。

知識と教養の決定的な違いとは?

今回、偶然にも役に立った『弓と禅』ですが、私は決して、

「相談された時に役に立つから」

という明確な目的があってこの本を読んでいたわけではありません。

むしろ、いつかどこかできっと役に立つとは思うけれど、それがいつなのか、どんな役に立つのかなんて全然分からない、というのが正直なところでした。

でも、今回、実際にお役に立つことが出来てとても嬉しく思ったのです。

いつかどこかで必ず役に立つ価値ある学びではあるけれど、それがいつ役に立つのか、何の役に立つのかが事前には分からない学び。

こうしたものを私は『教養』と呼んでいます。

そうした特徴を持つ学びとしての教養を深めていくことこそが、人生をよりスムーズに前に進めるための翼となり、自由な人生を手に入れるための鍵を握っていることを、私は自分の経験からよく知っているので、常に教養を求めて日々読書をする習慣があるのです。

一方で私も含め人間誰しも疑問や悩みをすぐに解決してくれる即効性の高い答えを欲しがる傾向にあります。

それもできるだけ分かりやすく、すぐに使えて、すぐに効果が出るものを。

私はこうした答えを”知識”と呼んでいます。

誰にでも分かりやすく、理解しやすく、納得もでき、すぐに結果に繋がりそうな答えとしての知識。

そうした知識が欲しいと感じる気持ちを感じたことは私も含めて誰しもが経験済みだと思います。

実際に『弓と禅』の著者オイゲン・ヘリゲル氏も一時的にそうした”知識探し”をしてしまい、それを見抜かれた師匠から破門されそうになるシーンが登場するほど。誰しも一度は経験するものだと言えそうです。

でも、何の役に立つのかが明確で即効性のある”知識”をいくら集めたところで、いつまでたっても自由な人生を手に入れることは絶対にできないのです。

なぜなら、教養と違って知識には人生をレベルアップさせる効果は一切ないからです。

なぜ知識を追いかける人ほど自由になれないのか?

人生のレベルというのは、その人が身につけている

・抽象度の高さ

・次元の高さ

・視座の高さ

・物事を俯瞰する力

・自分を客観視する力

などによって総合的に決まってくる、いわば人間の器の大きさのようなもの。

この人生のレベルの違いが、人それぞれの見ている世界の違い、生きている世界の違いに直結していて、そのまま人生の自由度として現実世界に現れてくるのです。

教養を求め人生のレベルを上げることを優先する人は、学べば学ぶほど人生がどんどん自由になっていって、時間の問題で次第に思い通りに生きられるようになっていきます。

一方で分かりやすい知識ばかりを追いかけてしまう癖が抜けない人ほど、いつまでたってもトラブル続き、不満だらけ、将来の不安まみれな辛い人生になってしまいがちなのです。

そうした両者の違いを生み出しているのが、人生のレベルを規定する、抽象度の高さ、次元の高さ、視座の高さ、俯瞰する力、客観視する力の差で、こうした差を生み出しているのが教養の有無なのです。

知識を追いかける人ほど自由な人生から遠ざかってしまう理由。それは過剰に知識を追いかけすぎると、

「AとBのどちらが正解なの?」

といった典型的な問いに出てくるような、正解or不正解、白or黒の泥沼にはまってしまいそこから抜け出せなくなってしまうからです。

例えば、健康系のジャンルが典型なのですが、健康になるために1日1食がいいのか、それとも2食のほうがいいのか、みたいな議論を見かけたりします。

他にも白米のほうがいい!いやいや玄米のほうがいい!だったり、野菜を食べるべき!いやいやむしろ肉を食べるべき!みたいな論争を見かけたりもします。

でも教養を身につけていれば、こうしたAとBのどちらが正しいの?といった問いにはほとんど意味はなく、正解は場合による(なぜなら体質はひとりひとり違うから)でしかないことにすぐに気づけるのです。

すぐに答えを欲しがる人ほど具体的で分かりやすい知識(絶対的な正解、ノウハウやテクニック、稼ぎ方や儲け方など)を求めます。

でも、そうした知識は具体的であるが故に視野を狭めます。

すると必然的に抽象度が下がり、次元が下がり、視座が下がります。

それが結果的に俯瞰できず、客観視出来ない自分を自ら創り出してしまい、時には誤解を生んで敵を作ってしまうことすらあるのです。

具体的な知識を求めれば求めるほど、人生のレベルは上がらず、お金と時間の浪費が増えて、人間関係のトラブルも増え、どんどん自由から遠ざかってしまうのはこれが理由なんですね。

この状況はいわば西洋医学で処方される自分に効果があるのかどうか分からない薬を飲み続けるのによく似ています。

そうして、かなりの確率で薬の副作用(事故投資、ノウハウコレクター化、セミナージプシー化)に苦しむことになるのです。

一方で人生のレベルアップを常に意識して、自分らしい自由な人生を手に入れることを優先させる人ほど、視野を狭めてしまいがちな詳しい知識よりも、視野を広げてくれる本質的な教養を求める傾向にあります。

そのほうがAとBのどちらが正しいの?といった、ほとんど無意味な議論に振り回されることなく、広い視野に立って、自分だけの正解を冷静に見極め選択することができるようになるからです。

これはいわば世界に一人しかいない自分という存在のDNAを次世代の最新テクノロジーで解析したうえで、自分の遺伝的特性にあった薬をオーダーメイドで処方して貰うようなもの。

これなら副作用もなく確実に望む効果が得られること請け合いです。

結局、分かりやすい答えとしての知識を求めるよりも、本質的で応用範囲の広い教養を求めるほうが、一見すると遠回りしているように見えて、実は人生をより自由にするという意味では圧倒的な近道なのです。

インスタントな答えばかりを求めて人生という名の副作用に悩まされ彷徨い続けるのか?

それとも自分だけの正解を教えてくれる教養を求め、日々着実に自由な人生へと近づいていくのか?

この両者の間に横たわる溝はマリアナ海溝よりも深いのです。

自由になるスキルとしての教養

『弓と禅』はビジネス書ではないので、ビジネスですぐに使える知識(やり方、ノウハウ、ハウツー)が書かれているわけではありません。

でも、人生全般に応用できるほど深くて濃いエッセンスがギュッと凝縮されていることもあって、ビジネスにも応用できるお宝が満載の非常に価値ある教養書になっているのです。

書かれているのは戦前の内容なのにも関わらず、未だに売れ続けていることがその価値を証明しています。

そして、こうした教養を含む書籍にどれだけ触れてきたのかによって人生の自由度は大きく変わってくるのです。

というのも、

『教養=自由な人生を生きる力』

そのものだからです。

教養を英語でLiberal Arts(リベラル・アーツ)と言います。

その起源は古代ギリシャにあると言われ、古代ローマにおいては「自由になるスキル」という意味のアルテス・リベラレスという言葉が英語に訳され『リベラル・アーツ』と呼ばれるようになります。

それが教養という日本語に翻訳されて現代に伝わっているのです。

つまり、歴史的にみても教養は人生を自由にする力の源泉であり、教養の有無が人生における自由の有無にダイレクトに影響を与えるのです。

一見するとすぐに使えそうな実用的な知識を手に入れた方が人生を自由にしてくれそうな気がします。

でも、そうした人ほど、何の成果も得られないまま”事故投資”を繰り返し、ノウハウコレクターやセミナージプシーになっていくのです。

私はこれまでそうした人をたくさんたくさん見てきました。

昔はよくそうした方のご相談に乗ることがありましたし、見かねて私からアドバイスしたりしたこともありました。

でも、分かりやすく、すぐに使えそうな知識を求めることを辞められなかった人は、その後も様々なメンターやコミュニティを渡り歩いたあげく人生を迷宮入りさせて、酷いときには借金まみれになって身動きが取れなくなってしまったことさえあったのです。

自由になるつもりがますます不自由になってしまう皮肉。

いつの間にかそうした悪循環に陥ってしまう人が後を絶たない理由はただひとつ。

それは分かりやすいノウハウやテクニックをはじめ、何よりすぐに結果の出る答えとしての知識を欲しがる気持ちが強すぎること。

そうした分かりやすい知識やノウハウ、テクニックは具体的です。

でもそれは逆から見れば、知識だけでは抽象度は上がらず、次元も上がらず、視座は低いままで、俯瞰する力は身につかず、客観視することができない、ということを意味します。

結局、そうした分かりやすく実用的な知識をいくら集めたところで、人生の自由度はいつまでたっても改善しないのです。

人生が自由になる時、一変するときというのは必ず

・抽象度が上がり

・次元が上がり

・視座が上がり

・高いところから俯瞰できるようになり

・自分を冷静に客観視できるようになる

というプロセスを経ます。

そうして視野が広がり、見える世界が広がったときにはじめて人は自由になれるのです。

そのきっかけをもたらしてくれるのは教養であって決して知識ではないのです。

今、時代が最も求めている教養〜センス(感性、感覚、直感、美意識)を磨こう!

今、私たちの生きている時代は歴史的な転換期ということもあって、ますます、不安定で、不確実で、複雑で、曖昧になってきています。

時代の変化が早すぎて1年後、いや半年後ですら、どんな世界になっているのか私も想像すらできません。

でも、そんな先行き不透明な時代にあっても、たったひとつだけ断言できることがあるのです。

それが、これからの時代は頭で論理的、分析的に考え出てきた、証拠や根拠がハッキリしている答えよりも、感覚的、直感的に閃いた、証拠も根拠もあいまいで、でもなんとなくそう感じるからとしか言えない答えのほうに価値が出てくるということなんです。

証拠や根拠を前提とした論理や分析を重視するアプローチは、過去のデータの延長線上に未来を見通そうとする行為です。

これは時代の変化が小さい時には確かに有効な方法なのですが、ひとたび変化が大きくなってしまうと全く通用しなくなるという弱点が。

折しも今は激動の時代の真っ只中。そんな時に論理や分析だけではもはや太刀打ちできないのです。

そこで一躍脚光を浴びるようになってきたのが、感覚的、直感的に閃いた、証拠も根拠もないけれど、でもなんとなくそう感じるとしか言えない感性や感覚、直感や美意識に基づいた答えを導き出すスキル。

そのためには感性、感覚、直感や美意識といったいわゆる『センス』が欠かせないのですが、こうしたセンスを身につけるのに最適なのが実は教養を学ぶことなのです。

それを証明するかのように、2010年代に入ると、それまで論理や分析を重視していた欧米のグローバル企業はこぞって幹部候補生をとあるところへ送り込み始めました。

その送り先というのが英国のロイヤルカレッジオブアートを筆頭とする美術・芸術系大学院だったのです。

今や時代の最先端を行くグローバル企業の幹部候補生たちは、証拠や根拠、論理や分析とは対極にある、美術、芸術、歴史、哲学といった、ビジネスとは全く関係のないように見える何の役に立つのかすら分からない教養を争うように学んでいるのです。

あなたはこの事実を知っていたでしょうか?

元々、論理や分析といった思考系のスキルは欧米のグローバル企業が得意としていた分野でした。

にも関わらず、今や欧米のグローバル企業の幹部候補生たちは美術・芸術系大学院で教養を学び、その他の社員は出社前にニューヨークのメトロポリタン美術館などの社会人向けプログラムに参加して、感性や感覚、直感や美意識といったセンス磨いているのです。

今やグローバルな規模で証拠よりも直感、根拠よりも感覚、論理よりも感性、分析よりも美意識に価値が見出される時代。

そんな時代に今最も求められているセンス(感性、感覚、直感、美意識)を磨くのに最適なのが教養。

日本でも80年以上も前になる戦前の1937年に吉野源三郎によって書かれた『君たちはどう生きるか』が2018年に最も売れたベストセラー本(累計200万部を突破)になったとして話題を呼びました。

そこからハッキリと読み取れるのは時代そのものが今や地球規模で私たちに教養を求めているという事実なのです。

人生100年時代を面白く幸せに生きていくために

「面白きこともなき世を面白く、すみなしものは心なりけり」

幕末の志士・高杉晋作と彼の看病をしていた野村望東尼(もとに)による有名な句。

ここに教養を身につけることの大きな価値がはっきりと示されています。

この句が教えてくれているとおり、面白くもなんともないこの世界を面白く感じることができるかどうかは、自分の心のあり方次第、つまり自分がこの世界をどのように見るのか次第。

そして自分の見ているこの世界を規定しているのが、抽象度の高さ、次元の高さ、視座の高さ、俯瞰する力、客観視する力といった教養からしか得られない各要素。

教養を身につけることの意味とメリットはまさにここにあるのです。

教養を身につけてそれを深めれば深めるほど、この世界を見る目の解像度(きめの細かさ)がアップしていきます。

そうして今まで見えなかったものが見えるようになっていって、選ぶことのできる選択肢の数が徐々に増えていきます。

選択肢が増えればそれに連れて人生の自由度は自ずと上がっていきます。

当然、自由になればなるほど生きるのは楽になります。

そして生きるのが楽になれば、目に映る世界は自然と面白くなっていくのです。

人生100年時代の本格化を前に、人生設計をゼロベースで見直すことの重要性を説く『LIFE SHIFT(ライフシフト)』を書いた英国のリンダ・グラットン教授は、2007年に日本で生まれた子どもたちは107歳まで生きる確率が50%もあることを指摘して大きな話題になりました。

仮に107歳まで生きるとするなら、54歳でようやく半分、70歳でもまだ1/3以上の人生が残っている計算になります。

そんな100歳オーバーが当たり前の時代のなかで、企業の寿命はむしろどんどんと短くなっているという現実があります。

実際、アメリカを代表する企業の1955年における平均寿命は75年だったのにも関わらず、2015年にはたったの15年と激減しています。

この企業の短命化が私たちの人生設計に及ぼす影響は非常に大きいものがあります。頑張って就職できたとしても、その会社が自分より先になくなる可能性のほうが圧倒的に高いからです。

もちろん日本も例外ではありません。

日本を代表するトヨタのような大企業ですらも、もはや終身雇用を維持できないと公言してはばからず、副業を解禁したり転職を促す企業も後を絶ちません。

さらに年金や公的医療保険制度もいつまで維持できるのか不安視されていて、将来のライフプランに対して楽観できる状態でないことは論を待ちません。

こうして現状を見てみると、私たちが生きている今のこの令和の時代というのは、武士という階級が消滅した明治維新や、軍人という職業が消滅した戦後直後レベルと同等か、それ以上の大転換期にあるということが改めてよく分かるのです。

これまでの経験や常識、働き方や生き方が全く通用せず、先行き不透明で正解のないこの時代にあって、一体何を信じて、何を指針に判断して、何を選択していったらいいのでしょうか?

もっと言えば、これからの未来を自分らしく自由に、そして何より幸せに生きていくために何をすればいいのでしょうか?

その答えが教養を学ぶことなのです。

教養は古代ギリシャ時代から脈々と受け継がれてきたいわば人類の叡智の結晶。

古いものでは数千年前のものもあり、気の遠くなるような年月を経ても全く色あせず、その価値を保っているものが数多く現代にも伝わっています。

でも一体なぜ、教養は価値を保てるのでしょうか?

それは、どんなに時代が変わっても、例え常識や国が変わったとしても通用する、普遍的で本質的なものばかりだからです。

逆に分かりやすいインスタントな知識は時代が変われば一瞬で使い物にならなくなります。

時代が変わったことに気づかないまま、知識ばかりを追いかけて判断してしまうと、確実に間違ったほうへと人生を進めてしまい、一生後悔することにもなりかねないのが今の時代の特徴なのです。

また、これまでの経験や知識、常識が通用しない全く新しい時代を生きる私たちは、持続可能な自分らしい働き方、生き方を確立することも求められています。

AI(人工知能)や自動運転技術、空を飛ぶドローンといったテクノロジーの進化によって、この世界はまさに今一変しようとしているからです。

これまで人間がやっていた仕事の大半は時間の問題で新しいテクノロジーによって代替されていくことは避けられないでしょう。

そうであれば、お金のためだけに嫌々働く生活から一日でも早く卒業するための行動を起こすべきだと私は思うのです。

でも、一体何から始めたらいいの?

私はどうしたらいいの?

と不安に思われるかもしれません。

でも、大丈夫。

「あり方(教養)ファースト、やり方(知識)セカンド」

今がどれだけ時代の大転換期であったとしても、具体的な知識ではなく、本質的な教養を求めさえすれば、あなただけの正解、あなたが選ぶべき選択肢、あなたが進むべき人生の方向性を教養がハッキリと教えてくれるのですから。

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